第1部:冷戦下の脅威と天才たちの構想
スプートニク・ショック、J.C.R.リックライダーの構想、ポール・バランとドナルド・デービスによるパケット交換の誕生をたどります。
第1部: インターネットの歴史 - 冷戦下の脅威と天才たちの構想
第1章:インターネットの歴史を変えた夜
1957年10月4日金曜日の夜、
ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功したと発表した。
この出来事はソ連が大陸間弾道ミサイルを発射できることを証明したものであり、
一夜にして、戦後盛り上がっていたアメリカの自信と楽観主義は恐怖と絶望へと変わった。
ソ連のニュースが報道されてから11日後の1957年10月15日、
第34代アメリカ合衆国大統領アイゼンハワーは国内屈指の科学者を集め、長時間の議論を行った。 この国家危機の中で、アイゼンハワーによりARPAが設立された。
その目的は、ソ連に対抗するための科学技術の研究開発を加速し、国家安全保障を強化することだった。
第2章:未来を見た男 J.C.R.リックライダー
1950年代初頭、コンピューティングとは、計算を高速に行うことを意味していた。
1953年、タイムクロックや電気機械式集計機器の国内最大手メーカーであったIBMが、 大型電子コンピュータの製造事業に参入した。
そして、1950年代後半、
IBMが10億ドルの売上を達成したちょうどその頃、 エンジニアのケン・オルセンがそれまでのものとはまったく異なるユーザーと直接対話する小型コンピュータを作り上げた。
オルセンの対話型コンピュータのアイデアは、 MITのコンピュータ研究者の先駆的なグループから生まれた。
彼らはそれを「タイムシェアリング」と呼び、 遅くて扱いにくい従来の「バッチ」処理方法に代わる魅力的な方法だった。
バッチ処理は面倒な計算方法で、結果が出るまで1日以上待つことも珍しくなかった。
タイムシェアリングは、 多くのユーザーが個別の端末からコンピュータにアクセスできるようにする新しい方法で、 バッチ処理の特徴である面倒な待機時間の多くを解消したことだった。
ジョセフ・カール・ロブネット・リックライダーは1915年にセントルイスで生まれた。 彼には科学者になりたいという夢があった。 1937年にワシントン大学を卒業したとき、 心理学、数学、物理学の学士号を取得していた。
同僚の多くは、彼の問題解決能力に畏敬の念を抱いていた。 彼はかつて、世界で最も洗練された直感の持ち主と評された。
1950年までに、リックライダーは MITの音響学研究所で働いていた。 翌年、MITがアメリカ空軍向け防衛システム開発を目的としたリンカーン研究所を設立した。 ソ連の脅威に対処した彼らの研究は「チャールズ計画」と呼ばれた。 その主なプロジェクトは、「遠距離早期警戒ライン(DEWライン)」だった。 これは、ソ連からの爆撃機やミサイル攻撃を早期に検知するレーダーシステムのことで、 ハワイからアラスカ、カナダ諸島からグリーンランド、 そしてアイスランドとイギリス諸島まで広範囲にレーダー網が展開された。
このような複雑な構造の通信、制御、分析は、コンピューターでしか処理ができなかった。 その要件を満たすために、リンカーン研究所はまずMITのコンピュータープロジェクトであるWhirlwind(ワールウィンド)に着手し、 その後、ソ連軍原爆搭載の爆撃機を発見し、要撃するための自動化されたコンピュータシステムSemi-Automatic Ground Environment (SAGE)と呼ばれる後継プロジェクトを開発した。 SAGEシステムは、世界初のリアルタイムコンピュータシステムと言われ、リックライダーを含む数人の思想家に、 コンピューティングをまったく新しい観点から見るきっかけを与えた。
リックライダーがコンピューターの可能性に興味を持ったのは、 1950年代にリンカーン研究所で、ウェズリー・クラークという若いエンジニアと出会ったときだった。
クラークは、当時のデジタル計算の最先端のマシンTX-2マシンに取り組んでおり、リックライダーにTX-2を見て基礎を学ぶように勧めた。クラークとのセッションはリックライダーに忘れられない印象を残した。 彼は心理学からコンピューターサイエンスへと興味を移していった。
リックライダーは1960年に論文「人間とコンピューターの共生」を発表し、 人間とコンピュータが協力することで、 それぞれ単独では成し得ない優れた成果を生み出せると提案した。
「近い将来、人間の脳とコンピュータが密接に結びつき、 その協力関係が、人間がこれまで考えもしなかった新しい方法で物事を考え、 現在のコンピュータでは不可能な形でデータを処理できるようになることが期待される。」リックライダーのビジョンは、人間が目標設定や仮説の構築、 評価を担当し、コンピュータがその準備や反復的な作業を引き受けることで、 複雑な問題に対処するというものだった。 この「共生」の考え方は、業界に新しいインパクトを与えた。
1962年のある日、ARPA初の化学出身者の3代目所長であるジャック・ルイナが、 新しい仕事についてリックライダーに電話をかけてきた。 このとき、リックライダーはARPA内に新設された情報処理技術部門(IPTO)の初代所長に任命された。 彼に与えられた主な任務は、コンピュータを科学計算のツール以外の用途に使うことだった。
リックライダーは、国内有数のコンピュータセンターを探し出し、研究契約を結ぼうとした。 すぐに、彼はスタンフォード、MIT、UCLA、バークレー、そして数社の企業から、 当時の最高のコンピュータサイエンティストに連絡を取り、ARPAの領域に引き入れた。リックライダーの側近は全部で12人ほどで、リックライダーはそれを「銀河間コンピュータネットワーク」と名付けた。
リックライダーがARPA に着任してから 6 か月後、銀河間コンピュータネットワークのメンバーに長いメモを書き、 その中で、さまざまなプログラミング言語、デバッグシステム、タイムシェアリングシステム制御言語、 およびドキュメントの急増に対する不満を表明した。 そして、リックライダーはコンピュータネットワークの仮想的な問題について論じた。
「いくつかの異なるセンターが網の目のようにつながっている状況を考えてみましょう。 各センターは極めて個性的で、 独自の言語と独自のやり方を持っています。 すべてのセンターが何らかの共通言語、 あるいは少なくとも『あなたは何語を話しますか?』といった質問をするための何らかの慣習が必要ではないでしょうか。 この問題は本質的にSF作家が論じている問題と同じです。 つまり、まったく無関係な知的存在の間でどうやってコミュニケーションを始めるかということです。」
リックライダーは銀河間コンピュータネットワークの概念を提唱した。 このネットワークは、一部の人々がメモを送るだけのものではなく、 全員が情報を共有し、アクセスできる、相互接続されたコンピュータの宇宙を目指すものだった。
第3章:ポール・バランとドナルド・デービス: 異なる地で生まれたパケット交換
1960年代初頭、 まだ、インターネットができる前、ポール・バランとドナルド・デービスという2人の研究者が、 お互いに全く面識がなく、大陸を隔てて異なる目標に向かって研究していた。
彼らのコンセプトの実現は、のちにパケット交換として知られるようになった。
バランのアイデアは「分散型ネットワーク」だった。 その構成は、中央に通信を一括管理する通信スイッチを置かず、 複数のノードが互いに接続されたネットワークを構築するというものだった。
2つ目のアイデアは、 各メッセージを分割し、 それぞれを「メッセージブロック」としてネットワーク内に送り出す仕組みを提案した。 これらのメッセージブロックは、それぞれが異なる経路を通って宛先に届けられ、 受信側で元のメッセージに再構築されるものだった。
バランが思い描いたのは、無人のスイッチが接続しあうネットワークであった。 このネットワークは、各ノードが「自己学習ポリシー」を持ち、 中央に制御ポイントを必要とせずにメッセージをルーティングする仕組みだった。 彼はこの方法を「ホットポテトルーティング」と名付けた。
イギリスの計算機科学者デービスは、バランのネットワークによく似た新しいコンピュータネットワークを構想していた。 短いデータブロック (彼はこれを「パケット」と呼んだ) をネットワークで送信する概念について説明した。
バランとデービスの研究の技術的な類似性は驚くべきものだった。 彼らのアイデアは概念的にほぼ類似しているだけでなく、 偶然にも同じパケットサイズとデータ転送速度を選択した。